プロフィール

七沢ゆかり@プロフィール

プロフィール
七沢ゆかりプロフィール
常に保健係に立候補した小学校時代
常に保健係に立候補した
小学校時代
今振り返ると学生時代一番多く携わった委員会は『保健委員』。
なぜなんだろう?と振り返ると、思い出されるのは、小学校1年生の時、休憩時間に勢いよく校庭へ走っていき、校庭へ降りる際に通る傾斜で派手に転んで膝を擦り向いた私を上級生が保健室へ連れて行ってくれて手当をしてくれた。多分それがキッカケだったのではないか!?と思う。
委員会決めの時に立候補するのはいつも保健委員。2期連続同じ委員会に携わることは出来ないので、その時は美化委員、図書委員、新聞委員会に入ったが、保健委員は何回やったか分からない。

常に保健係に立候補した小学校時代
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憧れの芹香ちゃん
小学6年生の時、たまたま本屋さんで手に取った漫画『ゆめ色クッキング 5巻』(くりた陸) 表紙の美味しそうなお菓子の絵に魅了され立ち読み。
憧れの芹香ちゃん

ゆめ色クッキング 5巻

くりた 陸
コトコトゆっくり時間をかけて、おいしく煮こんだ真心料理。芹香(せりか)の恋もじっくりと――。友だちもヤキモキするくらい鈍感な芹香と、編集者の南野さんの仲は……?くりた先生が腕をふるう、心(ハート)ホカホカ、グルメコミック第5巻!!
主人公の高校生の芹香ちゃんはとってもお料理上手。高校生でありながらひょんな事がキッカケで雑誌にコラムを連載する事になったので学生でありながらお仕事もこなしています。そして1話1話が日々芹香ちゃんの周りで起こる問題を芹香ちゃんお手製のお料理で丸く収めていくというストーリー。巻末にレシピもちゃんと載っており迷わず購入。その後1巻から7巻まで買い揃えた。
この時幼いながらにいつか1人暮らしをしたらオーブンを買って、芹香ちゃんみたいにお料理上手になりたい!という夢を抱きました。

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バスケに没頭した学生時代
バスケを始めたのは小学校4年生の時。 近所のお兄ちゃんから『試合の後、ラーメンとか食べに連れて行ってくれるよ!』と聞き、入るキッカケはそんな不純な動機だった(笑)。
そんな不純な動機ではあったがバスケの魅力にはまっていき小中高と9年間続けることになる。 けど、振り返ればとにかく怪我が絶えなかった…小学生の頃は突き指はしょっちゅう。
中学生では年1~2回は捻挫。高校生の時は鼻骨にヒビ、左足剥離骨折、腰の炎症は何度も繰り返し、最初の頃はちょっとしたストレッチで回復していたものが、1度やると歩けなくなる程に。腰に関しては整骨院、整形、鍼灸院をハシゴ。3人の先生から『腹筋が弱い!』と言われ部活の見学中はひたすら腹筋。治療と腹筋のお陰で腰を痛めることはなくなった。 初めての鍼もこの時。母に教えてもらい近所に住む盲目の先生が営む鍼灸院にお世話になり『鍼の響き』というものをとても心地よく感じたのを覚えている。

中学3年生、楽しかった!?入院生活
中学3年生、楽しかった!?
入院生活
中学3年生の時、前日の日曜日にバスケの試合があり、その疲れが抜けなかったのか翌日は朝から身体が重く、月曜日の1時限目の体育をサボろうか迷っていたところ『今日はハードルのタイムを計る』と担当教師からのお題に『あとあと一人でタイム計り直すのも面倒だな…』と思い走ることに。
順番は後ろの方だったので、順番が回ってくるまではほぼほぼ休憩状態。自分の番になりスタートをきって走り出したら『意外とイケる!?』と思った次の瞬間、足が上がりきらずハードルのバーに足首を絡ませバーごと転んだバーの上に自分のお尻が乗ってしまいテコの原理で見事に右足首を骨折。 授業終了5分前の出来事に教室で勉強していたクラスの集中力キレ組の子たちの注目になったようで、保健室に運ばれた時はなぜか保健室に人だかり!?
中学3年生、楽しかった!?入院生活
父に迎えに来てもらい病院に行ったら即入院。 その日は病棟の部屋まで運ばれたはいいが忘れられていたのか!?その日は固定も何もしてもらえず骨が折れてて動かせない足…寝返りも打てない…痛みで夜は1時間ごとに目がさめる…あんなにも長い夜はなかった。 2日後に手術。2時間かかると言われてた手術はなんと5時間もかかったそう!? 術後、動けるようになったら快適なもので、ヘルニアで入院してきたお姉様&お兄様たち、腕を傷めて入院していたアニキとおじいちゃん等、入院仲間にも恵まれ楽しく快適な入院生活を送りつつも色々な症状の方を目にし少し身体のことに詳しくなったのもこの時の経験があったからかなと思う。 そして当時病院のテレビはお金を入れてみるタイプ。アニキにお金を入れるところから針金を忍ばせてテレビをつけるという方法を伝授してもらう(もう時効でしょう…笑。 今はカード挿入タイプに切り替わっているので出来ませんが、真似をしてはいけません!笑)。退院後はリハビリに行くたびにまだ入院していた同室の部屋へ行って得意げにテレビをつけてあげるのであった。

山梨脱出!
山梨脱出!
高校はプロレスラーだった故ジャンボ鶴田さん、そして作家の林真理子さんの後輩である。 高校時代も相変わらずバスケに明け暮れ、友人たちにも恵まれ楽しい学生生活を送る。
3年生で進路を決める時、これといってなりたいものもなかったが、温泉病院へリハビリの見学会があったので参加。自分自身も骨折してリハビリはお世話になっていたことがあったのでなんとなく想像はついていたが、そこで目にしたのは外傷だけではなく半身不随などもっと症状の重い方達のリハビリの光景に衝撃を受けた。また、私が知っていたのは運動機能を回復させる理学療法士だけだったが、社会復帰に向けて身体と心のリハビリをサポートする作業療法士や言語機能や摂食・嚥下機能に関する課題を対象としたリハビリを行う言語聴覚士という仕事もある事を知った。
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高校時代、バスケ部のみんなとの1枚
自らの経験で惹かれたのは理学療法士だったが倍率が高いということですんなり身を引く… しかし、どうしても県外に出てみたい!という思いが強く、県内にない学部学科を探す…父が建築関係の仕事に携わっていたこともあり『建築いいかも!?』と当時進路を気にかけていてくれた先生に相談に行くと『受験科目に無理があるな…』と。当然であろう、私は文系のクラスにいたのだから(笑)。ハードがダメならソフトでどうだ!とインテリア関係で寮付きの専門学校を探し親を説得。なんとか県外に出ることに成功!
親元を離れ誰も知らない環境へ飛び込むことに不安よりもわくわく感の方が強かった。そんな期待を胸に準備を進めていた頃に起きたのが『地下鉄サリン事件』。私が入る寮は事件の起きた丸ノ内線…土地勘もないので不安は募るばかり…

夢の1人暮らし
夢の1人暮らし
ひとまず寮付きの専門学校に進学。 寮の門限は21時、お風呂は22時まで、外泊は月5回まで。21時以降他の部屋へ遊びに行ってたりするのが運悪く寮母さんに見つかると始末書を書かされる。網戸がないため度々ゴキブリ出現の悲鳴が聞こえる。中庭を挟んで男子寮があり食堂が唯一の出会いの場!?電話をかける時は公衆電話、かかってくる電話は事務所が取り次いでくれるので、放送で呼び出されたら事務所へ行き電話を受ける。わんさかいた寮生もこんな生活に耐えきれなかったのか、大半が夏休みを機に寮を出て行く。 人数が減ったほうがそれなりに快適で仲の良い仲間も増え健全な範囲で適度に規則も破り楽しく充実した寮生活を送る。
県外へ出たいという動機の方が大きかった私ではあったが、学校へ行けば本当に絵が上手な子やオシャレな子たちが沢山いて、感性豊かな友人たちは私にとって良い刺激となった。授業の一環でもあったが、美術館や博物館などへ足を運ぶようになったのもこの頃から。今思えば感性を磨くことは後々の仕事に非常に役にたっている。
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専門学校卒業式での1枚
そんな充実した寮生活、学生生活を送りながらもじわじわと1人暮らしが出来るよう母親へお伺いを立てていた。そして、2年生の夏休みにはいよいよ1年半お世話になった寮を出て夢の1人暮らしが始まるのである。両親に来てもらい引越しを済ませ、秋葉原へ家電製品を買いに行った。絶対オーブンレンジが欲しかった私は、とりあえずのもので済まされたくなかったので、オーブンレンジだけは自分のバイト代で買う!と宣言。もう気分は芹香ちゃんである。でも、芹香ちゃんのようにオーブンレンジが活躍したかというと…(笑)。それでも新宿の高層ビル群の中を歩きながら『私、都会で1人暮らししてる!』とよく感慨深く思ったものである。

なぜエステティシャンになったのか
なぜエステティシャンに
なったのか
私が1人暮らしへ漕ぎ着けたのは母親に『(インテリアとかの仕事は)山梨じゃ厳しいだろうから東京で就職することになるとおもうよ』と説得していたのだ。ところが、頂いた内定を2件蹴ってしまったらなかなか決まらなくなり、新年度が始まってしまい益々決まらない…このままでは山梨に帰ってこいと言われる!?と焦った私はとにかく正社員にならなきゃ(汗)と焦るのであった。
そんな時、寮で仲の良かった子がエステティシャンの仕事をしており『すごくやりがいがあるよ!』と聞き180度方向転換。 友人と同じ会社に問い合わせてみるも新卒しか取っていないから来年になると言われたため、ご縁を頂いた某大手エステサロンへ就職。
一見華やかに見えるエステティシャンに憧れて入ってきた子ほど続かない。私はなりたくてなったわけでもなく、元々体育会系で将来は何か身体を動かす仕事をしたいと思っていたので、かなりの肉体労働ではあったが私は部活のような感覚だった。
私は新宿の忙しいお店に配属。朝から晩まで肉体労働、そして日付をまたいで帰るのが当たり前。新人が1日、1週間で消えていくのは当たり前。そんな環境では店舗配属後1週間後には私も先輩に…。新人のフォローも私の仕事の1つだった。
なぜエステティシャンに<br class="sp-only" />なったのか
大手エステ時代、会長との1枚
人が入社したサロンは白いワンピースにサロン内は絶対走ってはいけませんという風潮(多分こっちが多数派であろう)。かたや私が入社したサロンはパンツスタイルで電話が鳴ったら2コール以内に取るがモットーだったので電話が鳴ったら施術中の手を止め電話に向かって猛ダッシュ(笑)。
体育会系の私にはその風潮も性に合っていて、今では考えられない職場環境ではあったが、上司にも恵まれ、仕事に対する姿勢、技術指導、マネージメントなど社会人として、人として、そしてエステティシャンとしての土台が作られていった。

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エステティシャンという仕事を
通じて感じたこと
一番最初に入社した会社で『女性が携わる仕事でエステティシャンは2番目に偉い仕事だ』と言われてきた。1番目は命を預かる看護師さん、2番目は『人生を変えてあげることが出来るエステティシャン』
言われた通り、痩せて綺麗になって人生が変わった方を沢山見てきた。性格が明るくなった方、積極的になった方、オシャレになった方、健康になった方。今でも覚えているのは健康診断にいったお客様から『短期間で痩せたにもかかわらず全ての数値がよくなっていたから、お医者さんに『君は一体何をやったんだ!?』って驚かれました』というのだ。そのサロンの考え方、技術ももちろん素晴らしいものではあったが、健康的に綺麗に痩せていく上で『食事の質とバランス』がとても大切だということをそれから先も実感していくことになる。
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エステサロン時代の表彰式での1枚
新人の仕事のひとつにお客様に書いていただくお食事ノートのチェックがあった。栄養士さんからのアドバイスのもと、赤ペンでチェックをして返す。 私自身、20代前半は3~5kgの体重変動はしょっちゅうだった。痩せたいがために食事の量を減らしサウナへ入ったり、低周波をかけたりダイエットに励んだが、結果、ハードワークな日常の私には当然エネルギー不足となり免疫も低下し、入社後少し慣れてきた私を襲ったのは若いにしては酷すぎる帯状疱疹だった。お腹周りに出来た紅い帯状の斑点は服が触れても痛く、みるみるうちに水膨れが固まりでブワッと湧き出て、仕事を早退したものの発熱しだし、フラフラになりながら実家へ帰った。改めて病院へいき、1週間絶対安静の診断がくだる。
何かの表彰式と千葉そごう店の仲間たちと
当時勤務していた千葉そごう店の仲間たちと
薬をもらって大人しくしてたら3日ほどで痛みなどもひき、あとは何ってすることもなかったので食っちゃ寝食っちゃ寝で1週間で5kg近くリバウンドした…。肥大していく身体に皮膚が追いつかず裂けるように痛かったのを今でも覚えてる。鏡で後ろ姿を見たら案の定お尻の下がひび割れたように肉割れをおこしていた。食事を減らしてのダイエットは絶対ダメ!自分自身身をもっての体験だった。
自身の体験ではもう一つ、少し遠い勤務地へ勤務していた時、仕事が終わるのが遅く終電にも間に合わず、店舗に泊まり込む日が何日か続いた時があった。サウナ、低周波などは自由に使うことが許されていた店舗では痩身パラダイスである。帰れないので食事はほぼ近くのコンビニ。毎日、仕事後痩身に励むものの一行に痩せない…。忙しさが少し落ち着き、家に帰れるようになってお弁当を作って持っていくようになったら痩身に励まずとも自然と痩せた。拍子抜けである。この時『ストレスと添加物はダイエットの敵』であることを実感した。
フェイシャルに通っていたお客様の例でもブライダルで週1ペースで通ってきてはくれてたが、元々オイリー肌の方でキメは荒く毛穴も開き気味。お肌を綺麗にしたくても仕事のストレスで毎日板チョコ1枚平らげるのは当たり前。辞めようにも辞められない…。毎回超音波を使って皮脂を取ってあげても、次来るときには酷い皮脂詰まりを起こしている。ブライダルも終え、1年後久々に来店してくださった時は仕事も辞めており、当然板チョコ生活ともおサラバしていた。そんな彼女の肌は皮脂詰まりを起こすこともなく、触り心地もだいぶ滑らか。本人も『あの頃、私どうかしてました…』と振り返る。 人間は食べるもので作られてるんだな~と、お客様や自分の経験を通して本当に学ばせていただいた。
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お客様だった相田翔子さんと一緒に撮らせていただいた1枚

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初めての婦人科検診で子宮頸癌高度異形成。
そして、母の闘病…結局行き着いたのは『食事』だった。
27歳の時、初めていった婦人科検診で子宮頸癌の検診でひっかかり3aの経過観察。初めてのことで動揺し、今思えばそのまま半年くらい経過観察してみても良かったのかなとは思うが、知人に紹介してもらった病院へセカンドオピニオンを求めた。そしたら今度は高度異形成の3b…再検査の組織診でも3b…結局1週間ほどの検査入院をし癌細胞ではなかったとのことでその後経過観察となった。そんな私を心配し、長年何も言わなかった母も『もう帰っておいで』とひと言。私自身も10年近くの都会生活に満足し、もう実家に帰っても何も後悔はないなと感じアパートの更新を機に実家へ戻った。
10年ペーパードライバーだった私はまず運転の練習から。車社会の山梨では車なしでは就職先が限られる。就職先も決まり半年ほどたち、免許取得10年目だが初心者マークをつけて走り回り、車の運転もだいぶ慣れてきた。そんな頃、突然母が朝から何度も下血を繰り返し救急車で運ばれた。下された診断は大腸癌。1ヶ月半程の入院生活を経て放射線治療へ通うことになった。放射線治療は車で30分ほどの大きな病院へ行かなければならない。仕事を辞め毎日母を連れて病院へ。母も身体が大変だったので、代わって家事などをしつつ、癌に関しての本なども何冊か読み、ネットでも色々検索していくうちに13年間の生存率94.8%の癌患者さんたちで構成された『NPO法人いずみの会』を知る。中山会長の本を読んで癌は体質改善。身体は日々の食事で作られている。腑に落ちる内容も沢山あり、勉強会にも参加してみた。それから中山会長おすすめの電気圧力鍋を購入し、玄米を取り入れ始めた。以前にも玄米を炊いたことはあったがパサパサで美味しくなかった。けど、購入した圧力鍋で玄米を炊くともち米か!?と思うほどもちもちに炊くことが出来る。その美味しさに驚いた。家族みんなで玄米食に切り替え、この頃、私たち3兄弟は便秘でもないのに更に便通が良くなり皆んな周りから痩せた?と言われた。 癌に関して食事だけが全てではないが、身体を構成してくれる源であることは確かなので、この頃から更に食への関心が高まり、その後も日々食べるものが身体を作り、精神を作っていく事を学ぶことになる。

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38歳で鍼灸学校へ進学
大手エステで働いてた頃、ハードワークに悲鳴をあげた身体をメンテナンスしようと渋谷の鍼灸院へ足を運んだ。女性院長が担当してくれ『お尻パンパンね!?』とお尻に鍼をひと刺ししてもらったら、触らなくてもお尻が小さくしぼんでいくのが分かった。まるで風船の中の空気がプシューっと抜けるかのような感覚だった。そして『腕もパンパンだよ』と肘近くに鍼をしてもらったら指先まで電気がビリッと走り抜けた。その次の瞬間、溜まっていた疲れがウソかのように抜けていった。帰りには凝りという凝りが全てなくなったんじゃないか!?というくらい身体が軽く楽になった。私はあの時の感動が忘れられない。
『手でも揉みほぐせないような固い部分を何故あんな細い鍼1本が解してしまうのか』不思議で不思議で仕方なかった。鍼で強張りを取ってあげて、ハンドトリートメントしてあげたら最高なんじゃないかな!?でも、鍼灸師になるには3年間学校へ通わなければならない。医療系ということもあってか費用も高めだ。ただ年齢層が幅広いので結婚して子育てを終えた後とかでもチャレンジ出来るのかもしれない…。そう思い『いつか鍼灸師の資格を取りたい』と22歳の頃密かに野望を抱いた。その後、何度か通ったが院長の予約が取れず足が遠のいていった。他の治療院にも行ってみたがあの時ほどの感動はなかった。
山梨へ帰ってから、よく姉とお芝居などを見に月1回都内へ足を運んでいた時期があった。その頃、時期を同じくして環境の変化からか頬にたくさん吹き出物が出ていた事があった。ある日、姉と都内にお芝居を観に行ったのはいいが、その日は寝違えたのか首が回らずしんどくてお芝居を観終えた後直ぐにあの感動した鍼灸院へ電話。予約調整をしてくれ、なんとか当日予約を取ることが出来た。そのまま姉を道連れに10年ぶり!?に訪ねて行った。場所は変わっていたので雰囲気も変わっていたが、先生の鍼が忘れられなかった事を伝え治療してもらった。相変わらず首肩腰の張りが酷く先生を驚かせたが、鍼の響きが私の身体を少しずつ心地よく解していってくれた。 治療が終わって待合室へ行くと姉に『あれ?顔もやってもらったの?凄いニキビがひいてるよ!?』と驚いていた。私自身、身体が楽になった事に感動しており、そこまで意識がいってなかったので改めて鏡をよく見て驚いた。顔は特になにもしてもらってなかったが首肩の血流がこんなにも顔に影響を与えるものかと確信した体験だった。この体験はその後の私のエステティシャン人生に非常に役に立った。
30代も後半に入り年齢と共に経験値も増し、日々対応するお客様は有難いことに指名してくださる方が殆どとなったが、この頃、中堅のスタッフがいなくなり私と経験の浅いスタッフという構成になってしまい、20代の子たち以上にフル稼働で施術をこなしていた。流石に20代の頃とは違う体力の低下を感じてきた。現場を離れ、スタッフの指導やマネージメントへ回るという道もあったかもしれないが、やっぱり現場が好きな私はどうにかして現場に立ち続ける方法はないか考えた。その時思い浮かんだのが『鍼』だった。後々、鍼は鍼なりの大変さがある事を知るのだが…その時の私は衰える体力をカバーできる方法に鍼以外思いつかなかった。
若い時は結婚して子育てでも終えてから…と思っていたが、幸か不幸かご縁はなく(笑)時間もお金も体力も無茶出来るのは今のうち!?と思い、仕事もすぐ辞められる状況ではなかったので、社員からパートという形に切り替えさせてもらい15時まで働き、その後毎日東京まで通った。 20代の頃に密かに抱いた野望ではあったが、現実に向けて一歩踏み出す時が来るとは、我ながら驚くばかりである。
社会人になってからの学生生活はとても新鮮で、これまでほぼ独学でやってきたが、現場で多くの方の肌や身体に触れてきた経験があるからこそ、学んでみてより理解が深まることも多かった。先生方やクラスメイトにも恵まれ、毎日の東京通いが苦になることなんて一度もなかった。むしろこの時、学校が私のパワースポットだった。

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国家試験に向けて体制を整えるも…
何故か『パン先生』にもなってしまった!?
鍼灸学校もいよいよ最終学年の3年生。 2年間毎日山梨⇄東京を往復するも流石の受験の年は厳しいと判断し、7年間勤めた職場を退職して地元を離れることにした。 学校を無事卒業し、資格も取得出来たらサッサと帰ってくるつもりでいたので当時話題になっていたシェアハウスに入居し、職場も治療院に切り替えて引き続き鍼灸学校の夜間クラスへ通った。 シェアハウスへ引っ越した頃、実家から通っていた時は台所仕事も母亡き後みるみる腕を上げた父に任せっきりだったが、さすがにもう頼れないので再び自炊せねば…と携帯片手に『やりくり上手』と検索して1冊の本と出会う。それかがパン作りの師匠となる白崎裕子先生の『秘密のストックレシピ』である。
秘密のストックレシピ

秘密のストックレシピ

白崎 裕子
NHK「あさイチ」(1/24放送)で話題!! “豆乳チーズ”、”豆乳マヨネーズ”など、 毎日の食卓で大活躍間違いなしの 安心おいしいストックが作れます! 情熱の料理家・白崎裕子が研究を重ねてきた 人気のストック50品が大集合! 目からウロコのかんたんレシピはもちろん、 ストックを組み合わせて作る展開レシピまで盛りだくさん。
そして私の目に飛び込んできたのが『予約が取れないお料理教室』という文字だった。予約が取れない!?何処でやってるの!?と調べてみたら葉山だった。
逗子駅からバスで20~30分程。当時住んでいた大船は逗子まで駅3つ…近いじゃん! 感じるままに動いてしまう私は白崎裕子先生主宰の『白崎茶会』のHPを見てみた。通うにはなにやらスタートクラスというものを受講しないとならないらしい。いつあるの!?と開催日を調べてみたら近日中にあることが発覚!…が、しかし既に満席…すっ…凄い💧けど、どうやらキャンセル待ちを募集してくれてるようだったのでご縁があればいけるだろう!?と、ひとまずキャンセル待ちに申し込んでみた。そしたらなんと次の日に『キャンセル出ました』というメールが届いて参加できることに。
初めて行くお料理教室にドキドキワクワクしながら逗子駅からバスで向かうと海沿いに建つ古民家だった。なんとも素敵なロケーションにテンションマックス!共に学んだ中には神戸や岩手から来たと言うから驚きである。スタートクラス終了後、近日中に『丸パンクラス』というのがあるというのを聞き、そのままの流れと勢いで申し込み、再び足を運ぶことに。そして4月からスタンダードクラスという月1回の定期クラスがあるというので抽選になると聞いていたが申し込んでみた。見事第1希望の木曜日クラスに入れることになり、鍼灸の受験と並行して白崎茶会へも通うことになった。
そんな中、鍼灸師の国家試験も迫っていたのでまずは国家試験に向けて集中!無事合格後、再びパン作りへ励むのであった。そんな私を見てどこへ向かっていくの?と思う人も多かったことだろう(笑)
身体は食べるもので作られてる。パンを作るのに必要な材料は身体を構成するのにも必要なものである。それが安心安全なものならなおさらベスト。身体を構成していくものを分かりやすく楽しく伝えていけるのにとても良さそう!そんな想いを抱きながら仲間と支え合い励まし合い白崎先生の熱い指導を受け、晴れて『白崎茶会認定のパン先生』となる。
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白崎茶会では毎回目からウロコで学ぶことは多く、通う中で私は『地粉』というものを知った。地粉とはいわゆる『うどん粉』である。強力粉、中力粉、薄力粉とあったら中力粉にあたる粉。パンといえば強力粉が一般的だが白崎茶会ではこの地粉でパンを作るのだ。そして何やら『パン先生クラス』というものがあることを知り、地粉に魅了されていくと共に身体に触れる仕事を通じて『食』のことも伝えていきたいと考えていた私はパン先生クラスを目指し仲間とともにパン作りに励んだ。

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鍼灸師時々パン先生
ななさわゆかりの夢
今は修行させていただきながら少しずつ個人的な活動もしているが、いずれは自分のこれまでの集大成を表現していくのが自分の人生においての課題かなとも思っている。
外からのメンテナンスと中からのメンテナンスをお伝えしていける場を創っていくのが私の夢である。だから屋号も◯◯鍼灸院というよりは鍼灸cafeとした。
『なな茶話』は未だフリーでフラフラしているが(笑)もしお嫁に行けて苗字が変わっても生まれ育った名前を残せたらな~という思いと、皆んなが健康や美容のことなどをお茶でもいただきながら楽しく集える場所があったらいいな~という思いを抱きながらある時ふと思いついたのが『なな(七)茶話(澤)』である。
いつか人にも環境にも優しい木や素材で作られた建物の中で皆さんの身体や心のメンテナンスをさせていただける場と、楽しく美味しくパン教室が出来るスペース、そして美容や健康のこと環境のことなどを皆さんと一緒に学び合えるようなスペースがある場を創って少しでも多くの方々のお役にてたらいいな~と日々精進中!
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